2017/02/01 (Wed) 20:21
【川崎フロンターレ 天野部長インタビュー】(その2)

「『スタ宙』に書ききれなかったこと」(第2回/全3回)

[インタビュー・文・写真 金野典彦]

第1回から続く)

■ヨシトの言葉が嬉しかった - 高田スマイルフェス

――陸前高田について伺います。天野さんがフロンターレで20年間やってきた歴代プロモーション中でのNo.1が、昨年7月に岩手県陸前高田市で行った「高田スマイルフェス2016」。私も開催前年の秋に陸前高田を訪れ、会場となる上長部グラウンドにも行きました。そのときのピッチは芝が全然生え揃わずデコボコで、正直これじゃJ1のトップチームが試合をやるなんて絶対無理だと思いました。それが、当日会場に行ったら、青々とした芝が綺麗に生えていて、ちゃんとしたピッチができていることに感動を覚えたのですが。

当日、芝は青々としてはいたけど、部分的には抜けているところもあって、実はすごく不安だった。「芝は完璧にするから」と言って社内を説得した手前、強化部のクラブスタッフに指摘されたら何て言えばいいのか、気が気じゃなかった。芝の育成管理をしてくれた「芝生の神様」こと松本栄一さんや陸前高田の方たちが、100%以上の力を出してあそこまでグラウンドを仕上げてくれたことを知っていてそれを否定されたくもなかったから、どうやったらその方たちの努力を守り、試合ができるように導けるのか、すごく悩んでいた。

ところが、選手が来てピッチを見たときに、大久保嘉人(以下、ヨシト/現・FC東京)が「凄いよ!あれがここまでになったんでしょ。天野さん、胸張っていいよ」って言ってくれたんだよ。ヨシトは開催2年前の2014年末に荒れ果てたあのグラウンドを見てたからね。「もし、芝について誰か文句言って来たら、俺が言うよ」とまで言ってくれてさ。あの一言はホント涙が出るほど嬉しかったし、勇気付けられたなあ。

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芝が生え揃った当日のピッチ

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開催前年10月のピッチ。芝がまだらで土が見えている部分もあった

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サイン会でヨシトはひとりひとり丁寧に応対

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J1のプロ選手が緑のピッチで躍動した

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ハーフタイムにはナオト・インティライミさんも練習参加

2014年の12月に、サッカー教室をやるために選手を陸前高田に連れて行ったときに、「サッカー教室をやる予定の場所」という名目で、ヨシト含めた選手を上長部グラウンドにも連れて行きボールを蹴ってもらったのだけど、結果的にはそれが良かった。このときは中村憲剛(以下、ケンゴ)が怪我で行けなくて、絶大な影響力のあるケンゴが事前にグラウンドを見ていなかったことも不安だったから、ヨシトの「ここまでのグラウンドを作ってくれたんだから、やるよ!」の言葉には心震えた。

現場に行ったことがあるかないかでは人の理解は全然違うから、やっぱり現場に行くことが大事。選手が事前にグラウンドを見ていなかったらこうは行かなかったと思う。事前に見せていたから、プラスの変化を選手が理解してくれたし、みんなで一緒にこのイベントを成功させようぜという空気を前から作れていたことも大きかったよね。

――結局、陸前高田には何回行ったのですか?

何回行ったんだろう?あまりにもいっぱい行ったんで覚えてないや。昨年11月にスマイルフェス以来4ヶ月振りに陸前高田に行ったけど、「故郷に帰って来た」という感覚で、ホッとするところがあったね。

そう言えば、ナオト・インティライミさんがライブで「2階席ー!」と呼んでいた、崖の上で観戦していた方たちが、フェス終了後もそこでビールサーバーを持ち込んだりして“後夜祭”をやっていたんだって。崖の上に住んでいる人たちは、震災後に移転してあの場所に住み始めていて、昔からの深い近所付き合いがある関係ではなかったようだから、スマイルフェスがその方たちの交流のきかっけになれたようで、良かったよね。

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横断幕のかかる崖の上が「2階席」

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「2階席」は会場全体が見渡せる絶好の観戦場所

■スマイルフェスは、自分に課した“試験”だった

――様々な大きな企画を実行してきた天野さんですが、高田スマイルフェスに注ぎ込んだエネルギーの量、熱量は尋常ではなかったと思います。何であそこまで、スマイルフェスに入れ込めたのですか?

僕にとって、スマイルフェスと宇宙強大の2大イベントをやり切ることは、自分の中で自分に課した“試験”だった。翌年からオリンピックでフロンターレを離れることを心の中で決めていたから、もし自分が納得いくかたちでやり切れないんだったら、クラブを離れる資格はないと思っていた。

フロンターレはようやく創立20年になったけど、正直まだまだで、これからの5年がすごく大事な期間になる。ハードの部分では等々力のメインスタンドが2015年に完成して、これからスタジアム周辺整備に加え、サイドスタンド・バックスタンドの二期工事に入って行く。その状況で自分が抜ける責任は大きいから、自分がこれをやりきったと思えなかったら抜けるべきじゃないと思っていた。スマイルフェスと宇宙強大の2つを同年にやり切るのは尋常じゃなかったけれど、それくらいのことをやり切れるくらいの人間じゃないと、新たなところでは戦えないと思った。オリンピックに行けば新たな障壁があるのはわかっているから、2つをやり切ることでそれを越えて行ける自信を得たかった。

■現場に足を運び、付き合い続けたからこそ

それにしても高田スマイルフェスの壁は高かった。被災地という心に大きな傷を負った人たちが暮らす土地であり、川崎から400㎞も離れている場所の人たちと協働していくことは、最初本当にたいへんだった。

震災からまだ1ヶ月しか経っていない2011年の4月に、算数ドリルを届けに現地に行って、現場の状況を体感したことが良かった。あのときの風景は今でも鮮明に覚えている。それからサッカー教室やかわさき修学旅行などで陸前高田と付き合い続けたことで、一方的な支援には限界があることを早いうちに察知できた。街に大事なのは活気だから、街を元気にしていくために協定を結んで、お互いが汗をかく「相互支援」のかたちに持って行けたことは大きかった。

400km離れた陸前高田との関係を通して、「ホームタウン」という概念を改めて考えさせられた。「ホームタウン」というと自分の住む街になるけど、フロンターレのような活動を続ければ、日本全体が「ホームタウン」となり得るんじゃないかって。

だから、Jリーグのクラブすべてが、もっと「スポーツの力」を意識して欲しい。そのためには前例が必要で、フロンターレはそれをやれるだけのパワーがあり、更に発展させられるポテンシャルも持っていると思う。ホームタウンやサポーターの気質もあるけど、クラブが何を目指しているかの方向性を示せば、それに共感する人たちが集まってくるので、クラブがどう人を導くかが大事になる。他のクラブで言えば、例えば松本山雅はみんなで街のクラブ・街のものを大事にして共に発展していこうという、フロンターレに近いものを感じるね。

■選手や強化部の理解も大きい

クラブが目指すべきところは街の幸せで、街が幸せになるためにクラブは存在する。勝利は街の幸せを促進させるという「目的」のための「手段」で、これを勘違いしてはいけない。だからクラブが街の人に愛されるために、勝利以外の活動も必要なことを、強化部にも理解してもらう努力を僕は続けて来た。強化部には、勝ってなおかつそのことを理解できる人材が必要で、フロンターレはGMが長らく変わっていないことは大きい。監督・キャプテンという鍵となる人間も同様だね。

選手会長の理解も大きい。伊藤宏樹(現・強化部スカウト)はもちろんだけど、僕がフロンターレに入社した1997年に中西哲生さん(以下、哲さん/現・クラブ特命大使)が入団したのも大きかった。当時、まだ選手会長って名前で活動はしていなかったけど、最初に地域貢献活動の話ができたのは哲さんで、クラブ創設当初の時代から、サンタクロースの格好をしたり、名刺を持って商店街の会長に挨拶するなどの行動をしたことは画期的だった。哲さんが、以降のフロンターレの選手の地域貢献・社会貢献のベースをつくってくれたことには本当に感謝している。

キャプテンと言えばケンゴ。ケンゴは僕の良き理解者でありクラブを一緒に創って来た“同志”だから、このタイミングでケンゴと離れるのは正直ツラい。ケンゴの現役選手生命が長く残っている訳じゃないことは自分もケンゴもわかっているし、自分がクラブを離れていたら、タイトル獲っても一緒に獲ったという感覚にはなれないからね。だからケンゴと共に在籍できる昨シーズン、僕はタイトルへの想いはホント強かった。まっ、ケンゴには僕が戻ってくる4年後まで引退しないようにと伝えたけどね。

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高田スマイルフェスでサインをするケンゴ

第3回に続く)

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